yugusuki’s blog(ゆぐすきブログ)

ウェルネスに興味ある中年男性のいろいろブログです

便利や快適を追及して失うもの

なにごとにも裏表といいますか、良い点悪い点があると思うのです。

 

便利を追及する世の中で、便利になるのは良いのですが、

あまり目立たない「もの」を失っているかもしれません。

 

 

目立たないので、全然気づきませんが。

 

人生は1つの道を進むしかないように、世の中で流れている時間は1つ。

 

どこか一方に向かっていけば、向かった先の結果はわかりますが、

仮にもう一方に向かっていったら、どんな結果になっていたかなんて、だれにもわかりません。

 

もう一方にあった結果が、失ってしまった「もの」かもしれません。

 

便利を追及してきた世の中ですが、いまだに便利ではない生活を続けている地域もあります。

日本国内でも差があるでしょうし、世界各地でも差があるでしょう。

 

自分自身で便利な生活を作ったわけでもないのに、不便な生活を見て「まだまだだな」と上から目線になるのは簡単です。

 

「まだまだ」な生活をしている人の方が、幸せ感は強いかもしれません。

 

失ったものは、こころに関するものかもしれませんし、からだに関するものかもしれません。

 

例えば、からだに関していえば、体を使わなくても、電気で動く装置がいろいろとやってくれますから(洗濯、掃除、食器洗い)、その分、筋力は落ちるのかもしれません。

 

それを補うように、筋トレにはげまないと、高齢になってから自分の足で歩けない、なんてこともあるかも。

 

こころに関していえば、対面で意思疎通を図らなくてもよくなったので、対話のスキルは、もしかしたら落ちているかもしれません。

対話力に優れた人だけが優遇されることがなくなったので、よりフェアになったのは利点ですが、個人対個人の会話という点では、良くなったのか悪くなったのか。

 

今いる現実でしか判断できないので、誰も正解を知りません。

 

ひとついえるのは、今の時代のなかで自分が生きていくしかない、ということです。

 

今の時代に適応できても適応できなくても、自分に与えられたスタートからストップまでの時間は、自分では選べません。

 

与えられた自分を生きていくしかない

なんていうと、重々しいですが、せっかくの人生ですから、便利ないまの世の中をどうやって楽しんでやろうか、と「たくらむ」くらいでちょうどいい

 

失ったものなんて、気にしなくていい、そう思います。