Z世代といわれる人たちは、昭和世代が当然と思っていたことを当然と思っていない場合があるそうです。
逆に、あたりまえでないことをあたりまえと思っている場合もあると思いますが。
当たり前の1つの例は、上司の命令の絶対性であったり、学歴というブランド価値であったり。
上司だって間違えることもあり、よかれと思っても判断を誤ることだってあります。
それを正しく理解しているのがZ世代なのでしょうか。
間違っているとわかっていても、いろんなしがらみを考えてそのまま従っていたのが昭和世代なのかもしれません。
なんとなくソフトランディングしてきたのが、昭和時代なのかもしれませんね。
学齢にしたって、ほんとは18歳のときのペーパーテストの成績でしかない。
その成績がすべてに影響するというのは、本来はおかしいのですが、人を評価する指標があまりなかったなら、そういった指標に頼るしかなかったのかもしれません。
かといって、どうやってもそんな点数とれない人にとって、点数を取れる人は、なんらかのスキルを持っているのは事実です。
点数を取れるスキルを、等身大で評価すればなんの問題もないのです。
評価が独り歩きするからややこしいのです。
学歴が高いといわれている人でも、バランスの悪い人はたくさんいます。
むしろ、多いかもしれません。
バランスのある人が「良い人」というわけでもありません。
個人の特徴ですから、バランスが悪くても1芸に秀でているのなら、十分に価値ある人間なのではないでしょうか。
学力=知識=記憶力というわかりやすい図式にのっかって、ペーパーテストで良い成績をとれる人が優れているような錯覚になっていたのが昭和時代。
ところが今や、こまかい知識を記憶していなくても、検索すればすぐに情報が手に入る時代です。
頭に記憶しておく量が重要ではなく、入ってくる情報をいかに整理して、いかに活用するかの方が重要であり、今の時代に必要とされていると考えます。
もちろん知識は大切です。
昭和では、その知識を得るための手段が、人によってあったりなかったりで差があったのでしょう。
多様化の時代というのは、こんな評価手段にも関係しています。
人の評価手段は、ひとつではないのです。
ものさしはいっぱいあるのです。
何かの資格を持っている人は、その資格の知識を持っているという証明にはなりますが、それ以上のものではありません。
結局、その人がどういった人であるかは、周囲の人しかわかりません。
なので、人に「ブランド価値」をつけるには、やはり、わかりやすい「レッテル」が必要なのでしょう。
そのレッテルが、学歴なのか、資格なのか、外見なのか、、、、
現代では、SNSで自己発信という手段もあります。
こんな時代に生きていて自分に「ブランド価値」をつけたい人は、選択肢がいっぱいあって、かえって困りますね。