私は、小学生から大学にいたるまでずーっと共学でした。
周囲に女性がいる環境があたりまえでした。
逆に、周囲に女性がいないと少し落ち着かないという感覚もあります。
共学といっても常に男女が混ざっているわけではなく、普段の会話は男性グループ内で行っていました。
同様に、共学であっても普段は女性同士で会話することがほとんどです。
社会人になっても、常に男女が混ざって会話することは稀でしょう。
そういうものです。
しかし、当然ながら世の中には男子校出身者、女子校出身者がいます。
思春期には、男子校の男子は女性への妄想がすごく、女子校の女子も男子への妄想がすごい、という噂は聞いたことがあります。
でも、実際に男子校を経験していないので、男子校の直接的な雰囲気を感じたことはありません。
運動部で周囲に男性しかいなかった環境と同じ程度かなと思っていました。
しかし、やっぱり共学出身者とはなんだか違うな~と思う場合があります。
妙に異性を意識しすぎるというのは、社会人になるとおさまるようですが、そのほかに、
異性を「モノ」とか「道具」扱いしているような傾向が、共学出身者よりも強いかもしれません。
でも、男子校や女子校を否定するつもりはありません。
学生のときに男子校出身者が周囲にいましたが、決して人間として変であったわけではありません。授業中の様子とか、けっこうおもしろい話も聞けました。
共学出身者にはない特徴があるようにも思えますから。
生身の異性が近くにいない環境が数年間、しかも、感受性の強い思春期にそんな環境にいると、妄想による異性像が頭のなかで暴走していたのかな、と勝手に想像します。
生身の人間なのだから、男性にもいろいろなタイプがいて、女性にもいろいろなタイプがいます。
妄想時期が長かったせいか、自分が描く異性像ではない異性を変人扱いしてしまう人が、ごくまれにいます。
共学だろうが男子校だろうが女子校だろうが関係なく、男女平等が叫ばれてもう数十年経過します。
共学であっても偏った考え方をする人はいます。
いまだに、「男性」でひとくくり、「女性」でひとくくりで異性を見てしまうクセが残っている人もいるようです。
男女の前に「個人」ですから、その「個人」がどうかという視点があれば問題ありません。
私自身、ずーっと男性として生きていると、女性側の視点があまりなく、「女性」をひとくくりで見てしまいがちです。
でも、よくよく考えると、男性のなかにもいろんなタイプがいるのは実感できますから、同じように「女性」のなかにいろんなタイプはいるはずです。
いろんなタイプの「幅」は、かなり広いという実感があります。
なので、男女ともに「幅」はかなりあります。
これが多様性なのだろう、と理解するようにしました。