多様性の時代といわれ、自分らしくというキーワードをよく聞くようになりました。
昭和の時代に多様性を認めていたら、高度成長がなかったのかもしれませんので、今の時代だからこそ重要なキーワードだと思います。
やっと一人ひとりの人権を深堀するようになったともいえる。
世界を見渡すと、多様性を認めている国がたくさんあるように思えてしまいます。
しかし、実は日本こそ多様性を認めている先進国かもしれません。
外国で長く暮らしたことがないので、想像するしかありませんけど。
そもそも、日本という国は、一神教のような「きちんと」した宗教観がないのかもしれません。
これは、かえって良いことかもしれません。
日本の神様には、尊い神様もいれば、庶民的な神様もいます。
神様にも多様性があるのです。
妖怪にしても、いろんなタイプがいます。
これらすべてが人間の脳によってできあがったものだとすれば、そのような考え方をする脳自体が多様性を持っていることになります。
大昔、日本列島に住んでいた人たちがそんな考え方をしていたのです。
ちょっと大陸の考え方とは違うと思いません?
「和」という名のもとに、集団の規律を重んじる風習がある一方で、多様性を認めている風習もあるのです。
ということは、何か規律に従って行動しなければいけない風潮がある一方で、その規律から外れた人もなんとかやっていける雰囲気もある。
実際、そんな気がします。
ただ、時代によって、一方の風潮が強まったり、弱まったりすることはあるのでしょう。
今は、西洋諸国の影響もあって、多様性を認めましょうという風潮が強くなっている気がします。
多様性は、もともと生物に備わっている気質なので、いまさら「ある」とか「ない」とか論じることではない。
多様性を認める雰囲気があるかないかですね。
ところで、自分のこと「普通」だと思っていますか。
おそらく大勢の人がそう思っているでしょう。
でも、「普通」って何。
他人から見れば自分は価値観の違う人間なので、「普通ではない」はずです。
自分が普通だと思い込むと、自分や他人を動かしてしまうエネルギーは出てきますが、人類にとっての過ちも起こしてしまいます。
人間という群れのなかで、自分は1つでしかない、という視点も必要ですが、1つの自分でしかできないことだってある、という視点も必要です。
ある集団のなかでは、少なくとも自分は、まあそこそこ役立っているかも、くらいがちょうどよい状態ではないでしょうか。